自分の生きた証(あかし)を子供達がいずれ読むことになる

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人生も50年を超えると、今まで過ごしてきた時間に対する実感をもとに、これから残された時間がどの程度であるか推し量れます。

サラリーマンであれば、就職してから30年、あと、定年まで10年余りの時の感覚は想像できるでしょう。

もちろん、50歳代といえば働き盛りですが、残された時間は加速度がついて流れていくように感じるものです。

自分はどこから来たのか

近年、親戚付き合いが希薄化する中で、わが子が、どのような命の繋がりを持って生まれてきたのかを知りたくなる時が来るかもしれません。

実際自分自身も、自分の両親のことをどこまで知っているかというと、断片的なことしか分かりません。

親が健在なうちに聞いておきたいと思っても、忙しさにかまけて時間ばかりが過ぎていきます。

また、世間一般の親子がするような会話をすることはあったとしても、自分にどれほどの愛情をかけてくれたのか、どんな思いで育ててくれたのか、親子の間だからこそ、気恥かしさが先に立って聞けないものです。

しかし、子供としては、自分を生み育ててくれた両親から、本当は聞いてみたいと思うものではないでしょうか。

また、親にしてみても、自分で買って出た苦労話を、子供に面と向かって話すのも躊躇してしまうものです。

親と子のお互いが、本心を伝えることなく何れその時を迎えるというのが一般的な我が国の家庭の風景だとしても、面と向かって会話はできなくても、親の本心を書き記すことはできます。

ただ、親が日記を書く習慣があればそのようなことも可能かもしれませんが、実際のところどの程度の親が日記を書いているかというと疑問です。

また、日記はあくまで日々の出来事を書き記しているだけで、誰かに読んでもらうことを想定して書いてはいないことも多く、日記は子供の期待に応えられないかもしれません。

それでもまだ夢がある

定年を迎えるような年齢になると、これからの人生の余生を趣味や旅行でエンジョイするという人ばかりではありません。

むしろ多くの人は、老後の人生設計を真剣に考えるようになるのではないでしょうか。

相方が病で倒れはしないか、子供たちは無事に所帯を持って幸せに暮らせるだろうか。心配ごとの種は尽きません。

しかし、60歳そこそこで、明日から何もしなくてもいいと言われても、これからの60歳は、恐らくまだまだやり過ごしたことが沢山あって、定年をきっかけに、第二の人生をスタートさせるという人も多くなるでしょう。

仮に、完成せずやり残して終わることがあっても、少なくとも自分が追い求めているものがなにであり、それに対してこれからどうしようと考えているかを書き残したいものです。

そして、それこそ、その人の生きた証しとして子や孫に伝えていかれるものになるはずです。

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